登場人物
- 瀬尾真琴……神保町の出版社で働く39歳。きちんとして見えるのに、昔のレシートや映画の半券を捨てられない。
- 藤代遼……下北沢で中古レコード店を営む40歳。無口なくせに、音楽の話になると急に少年みたいな目をする。
- 篠原紗英……真琴の高校時代からの親友で、代々木上原在住のWebデザイナー、39歳。さっぱりしていて、弱っている時ほど人にやさしい。
- 橘航平……三軒茶屋で小さなバーをやっている41歳。誰かの話を否定せずに聞ける、貴重な大人。
- 水沢菜月……中目黒を拠点に活動するフォトグラファー38歳。自由そうに見えて、いちばん昔に縛られている。
- 佐伯柊司……真琴の上司で編集長、42歳。静かな人だが、静かな人ほど大事な場面で強い。
四月に入ると、東京の桜は急に急ぎ足になる。
咲く時も散る時も、まるで「考える時間なんてないよ」と言わんばかりだ。
六人の共同企画は、思った以上に本格的に動き始めていた。
タイトルは仮で**『東京、再生中。』**。
昔集めた街の音、いま撮る東京の写真、六人が書く短い文章。Web展示と小冊子を連動させる案が出て、紗英は夜な夜なモックアップを作り、菜月は中目黒から浅草までカメラを持って歩き回り、航平は店の定休日に打ち合わせ場所を提供した。柊司は企画を出版社に通すための資料を整え、遼は古い音源やDVテープの整理を始めた。
そして真琴は、文章を書くたびに、遼のことを思い出してしまう自分に少し困っていた。
困る理由は、若くないからだ。
二十代なら勢いで会いに行けた。
三十代後半は、勢いの前に「このあと気まずくなったら仕事しづらいな」とか、「相手に別の相手がいたら自分だけ古いドラマみたいだな」とか、そういう現実が立ちはだかる。
その夜、真琴は神保町の会社を出たあと、銀座線で表参道へ向かった。柊司に呼ばれ、企画の相談を兼ねた軽い食事だった。
店は青山の裏通りにある、少し照明を落としたビストロ。若い頃は「こういう店に来る大人にはならない」と思っていたのに、気づけばメニューの字が見やすい店をありがたがる年齢になっている。
「真琴さんは、この企画、思った以上に本気ですね」 柊司がグラスを置きながら言う。 「そう見えます?」 「見えます。懐かしがってるだけじゃない顔をしてる」 「……過去を美化したいわけじゃないんです。ただ、あの頃の東京と今の東京の間に、自分がどう生きてきたのか、ちゃんと置いてみたくて」 「いいですね」
柊司はやわらかく笑った。
この人はいつも、人の話を結論より少し手前で受け止めてくれる。
「藤代くんとは、昔、付き合っていたんですか」 あまりに自然な調子で尋ねられて、真琴は水を飲みかけてむせた。 「……違います」 「じゃあ、好きだった?」 「編集長、そういうの、取材みたいに聞かないでください」 「失礼。でも大事でしょう、書くときに」
真琴は答えなかった。
答えられなかった、のほうが正しい。
食事を終えて店を出ると、表参道の街路樹に小雨が降り始めていた。タクシーを待つ人たちの傘が、ブランドショップの灯りを鈍く反射している。柊司は自分の傘を少し真琴のほうへ傾けた。
「昔のことを掘り返す企画って、実は未来のためにやるものです」 「未来?」 「ええ。過去に名前をつけ直すと、人は前に進みやすくなるから」
その言葉が、真琴の胸に静かに刺さる。
帰りの電車でスマホを見ると、遼からメッセージが来ていた。
“昔のDVから面白いの出てきた。たぶん真琴、笑う”
添付された短い動画を開く。
そこには、二十歳そこそこの真琴が映っていた。
渋谷のセンター街のはずれ、まだネオンが今より雑多だった頃、ガラケーを耳に当てて怒っている。
『だからメール送ったって! センター問い合わせしなよ!』 撮っている遼の笑い声が入る。 『真琴、そういう時だけめちゃくちゃ怖い』 『怖くない、普通!』 『普通に怖い』
真琴は電車の中で声を殺して笑った。
つられて泣きそうにもなった。
センター問い合わせ。
あの言葉ひとつで時代が丸ごと蘇る。
届いているはずの気持ちが、手順を踏まないと届かない時代。
今より不便で、だからこそ、届いた時の重みが違った。
“笑った”
そう返すと、すぐに既読がついた。
“今度、音源整理付き合って。ひとりだと昔に飲まれそう”
真琴はしばらく画面を見つめ、
“いいよ。私もたぶん、ひとりだと飲まれる”
と送った。
送信した瞬間、心臓が少し跳ねる。
恋の始まりにしては地味すぎる文章。
でも大人の恋なんて、案外こういう小さな文面から始まるのかもしれない。
その夜、布団に入ってからも眠れなかった。
枕元のスマホは静かで、昔みたいに着信ランプが点滅することもない。
それでも真琴は、画面の黒に映る自分の顔を見ながら思った。
あの頃は、届かないことに慣れていた。
今は、届いたあとを怖がっている。
どっちが大人で、どっちが臆病なのか、もうよくわからない。
窓の外で、遠く救急車の音がした。
東京の夜は、昔からずっとせわしない。
それでも、そのせわしなさのどこかに、自分の恋の居場所もある気がした。

