登場人物
- 瀬尾真琴……神保町の出版社で働く39歳。きちんとして見えるのに、昔のレシートや映画の半券を捨てられない。
- 藤代遼……下北沢で中古レコード店を営む40歳。無口なくせに、音楽の話になると急に少年みたいな目をする。
- 篠原紗英……真琴の高校時代からの親友で、代々木上原在住のWebデザイナー、39歳。さっぱりしていて、弱っている時ほど人にやさしい。
- 橘航平……三軒茶屋で小さなバーをやっている41歳。誰かの話を否定せずに聞ける、貴重な大人。
- 水沢菜月……中目黒を拠点に活動するフォトグラファー38歳。自由そうに見えて、いちばん昔に縛られている。
- 佐伯柊司……真琴の上司で編集長、42歳。静かな人だが、静かな人ほど大事な場面で強い。
公開初日の朝、東京は晴れていた。
真琴は珍しく早起きして、山手線の始発に乗った。
まだ人の少ないホーム、眠そうな駅員、売店の開ききらないシャッター。
東京が本格的に目を覚ます前のこの時間が、昔から少し好きだった。
何者でもないまま一日を始められる感じがするから。
スマホには、公開直後から感想が届き始めていた。
「自分のMDボックスを引っ張り出した」
「公衆電話のにおいまで思い出した」
「東京にいた恋人を思い出して泣いた」
そんな言葉が並んでいる。
誰かの記憶に触れる仕事ができたのだと思うと、胸の奥がじんわり熱くなった。
新宿で降りると、改札の外に遼がいた。
缶コーヒーを二本持って、少しだけ眠そうで、でも機嫌がよさそうな顔。
「おはよう」 「おはよう。始発で待ち合わせって、平成の青春みたい」 「今やるから意味あるんだろ」 「それはそう」
二人で南口の歩道橋へ向かう。
朝の東京は、夜の東京よりずっと正直だ。
酔いもネオンもないぶん、残るものだけが残っている。
「パリ、行くことにした」 真琴が言うと、遼はすぐに頷いた。 「知ってた」 「なんで」 「真琴、進みたい時の顔してたから」 「三週間だけだけどね」 「十分じゃん」 「帰ってくるけど」 「もっといいじゃん」
真琴は笑った。
不安がゼロになったわけじゃない。
恋人になったからって人生が簡単になるわけでもない。
仕事は相変わらず忙しいし、年齢のぶんだけ責任もある。
それでも、昔みたいに“好きかどうか”だけで世界を決めなくていい今のほうが、恋はずっと深いのかもしれない。
ほどなくして、ほかの四人からも連絡が入る。
紗英は「昼に代々木公園で祝杯」と言い、
航平は「昨夜、店で朝まで公開記念サービスして死にそう」と送り、
菜月は「ベルリン行き、決めた。でも東京を撮る仕事は続ける」と写真付きで知らせてきた。
写真には、朝の首都高越しに見える薄青い空。
そして柊司からは、
“パリの件、正式に進めます。あと、恋もおめでとうございます”
という、あまりに編集長らしいメッセージが届いていた。
「見透かされてる」 真琴が笑うと、遼もスマホをのぞき込む。 「柊司さん、ほんと敵わないな」 「敵だと思ってた?」 「少しは」 「子ども」 「恋愛の時だけは誰でも少し子どもだろ」
その言葉に、真琴はふっと力が抜けた。
そうだ。
大人の恋は面倒だけど、全部をわかった顔で済ませるほど器用でもない。
だからこそ、好きになった相手の前で、少しだけ子どもに戻れることが救いになる。
歩道橋の上で立ち止まる。
新宿のビル群に朝日が差し、窓ガラスが順番に光っていく。
東京はいつだって、人を急かす街だ。
でも、急かされながら見つけた気持ちだって、本物だと思う。
「真琴」 「なに」 「これから、たぶん昔より会えない日もある」 「うん」 「でも、昔みたいに届かないままにはしたくない」 「うん」 「ちゃんと言う。会いたい時は会いたいって」 「それ、すごくいい」 「真琴も言って」 「わかった。センター問い合わせしなくていいようにね」 「それ、今の子わかんないから」 「私たちがわかれば十分でしょ」
二人は笑う。
その笑い方が、過去の自分たちに少し似ていて、でも確実に今の温度を持っていた。
昼、代々木公園に六人が集まった。
コンビニで買った缶ビール、紙コップのコーヒー、テイクアウトのサンドイッチ。
たいした祝賀会じゃない。
でも、こういう雑な集まりこそ東京らしい。
紗英は芝生に寝転んで「四十前後の友情、最高じゃん」と言い、
菜月はみんなを勝手に撮り、
航平は「店、次は昼営業もやろうかな」と夢をこぼし、
柊司はネクタイを緩めながら「本になる頃には、また少し違う東京が見えるでしょうね」と微笑んだ。
遼はそんなみんなを見て、それから真琴を見た。
真琴も見返した。
恋が成就する瞬間より、
成就したあとも街の中でちゃんと続いていく予感のほうが、
たぶん大人には大事だ。
風が吹いて、誰かの髪が揺れる。
遠くで子どもが笑う。
電車の音がかすかに聞こえる。
東京は今日も忙しく、やさしく、少しだけ薄情で、ちゃんと美しい。
真琴は缶コーヒーを片手に空を見上げた。
青かった。
びっくりするくらい、青かった。
昔好きだった人を、今もう一度好きになること。
昔の東京を、今の自分で見直すこと。
そのどちらも、やり直しじゃない。
更新なのだと思った。
そして物語の最後にふさわしいほど静かな声で、
遼が真琴に言う。
「東京ってさ、たまに意地悪だけど」 「うん」 「ちゃんと再生ボタン、残してくれる街だな」
真琴は笑って、
「今度は停止しないでいこう」
と答えた。
そうして、六人の上にある東京の空は、
新しい一話目みたいに明るかった。

