登場人物
- 朝倉慎吾……札幌の地方紙記者
- 冬森梓……道警の刑事
- 遠野紗英……小樽でバーを営む女
- 小野寺泰造……新得に暮らす元駅長
- 鳥羽颯太……失踪した姉を二十年探している除雪車運転手
父の遺品を漁るというのは、たいがい徳の高い行いではない。死人の引き出しには、生者が見ないことにしていたものがちゃんと入っている。
朝倉が実家の物置から古い書類箱を持ち出したのは、夜の十一時を回ってからだった。母はとっくに寝ている。生前の勇作が使っていた万年筆、名刺束、取材メモ、その底から、小さな茶封筒が出てきた。
中に入っていたのは、未掲載の原稿と写真二枚。
一枚は例の狩勝峠のホーム。もう一枚には、転落現場の斜面が写っていた。雪に半ば埋もれた女の体へ、別の女が身を屈めている。
裏に、父の字でこうある。
「遠野、雪乃の手を離す」
朝倉はしばらく息ができなかった。
証拠はあったのだ。父は見て、書き、そして載せなかった。黒木に握りつぶされたのか、会社が潰したのか、あるいは父自身が保身を選んだのか。そのいずれでも、結果は同じだった。
雪乃は二十年、雪の下に置かれた。
翌朝、冬森と颯太を呼んだ。
写真を見た颯太は、唇を噛み、やがて低く言った。
「やっぱり、掴んでたんだ」 「離した瞬間を撮ってます」冬森が言う。 「……いや、違う。掴んでたことが大事なんです」
彼の言葉に、朝倉は顔を上げた。
「姉ちゃん、子どものころから手が冷たかった。だから人の手を掴むと、なかなか離さなかった。怖いときほど、そうする人だった。
その姉ちゃんが落ちるとき、相手の手を握ってたなら、最後まで助かりたかったんだ」
颯太の声は震えていたが、泣いてはいなかった。長いあいだ泣く時期を逃した人間は、声だけが子どもに戻る。
三人は小樽へ向かった。
『青い灯』に紗英はいなかった。ピアノの上に鍵と、短い置き手紙だけがある。
「終着駅は、はじめから決まっていた。
新内の防雪林で待つ」
新内。狩勝峠へ上る途中の、廃駅跡に近い場所だった。
夕方、吹雪が強まるなか、防雪林の脇に停められた古い軽自動車の中で、紗英は待っていた。コートの襟を立て、まるで二十年前から一歩も動かなかった女のように。
「写真、見たのね」
紗英は朝倉ではなく、颯太に向かって言った。
「ええ、私が離したの。
黒木に突き飛ばされてぶら下がった雪乃の手を、私は掴んだ。でも重かった。怖かった。風が強かった。……それで、離した」
「わざと?」 颯太の問いに、紗英は長い沈黙のあとで答えた。
「半分は。半分は違う。
助けたかった。でも、助かった雪乃がまた歌って、また誰かに愛されて、私はずっと引き立て役のままだと思った。そんなことを考えた一瞬があった。
その一瞬が、人を殺すのよ」
冬森が一歩前へ出た。
「中村礼一も、あなたが」 「ええ。あれは言い逃れしない」
吹雪の向こうで、列車の通らぬはずの線路が鳴るような気がした。
朝倉は父の原稿を思い出していた。父もまた、一瞬の弱さで人を埋めたのだ。
人間は、一生の大半を善人でいられる。だが残りの一瞬で、取り返しがつかなくなる。

